しゃぼんの謂れ

「江戸」そして「浅草」の名が日本の歴史に初めてあらわれるのは「吾妻鏡」と言われる。「吾妻鏡」は鎌倉幕府の歴史をつづった書であるが、それによると、江戸桜田郷に居を構える秩父重継の長男が、「江戸太郎重長」と名のり、武蔵国の長として平氏に味方し、源頼朝と戦ったとある。

鎌倉時代から南北朝を経て江戸氏は滅びてゆくが「江戸」という地名は残った。 江戸氏が滅びた後、江戸の地は草深い葦のしげる片田舎となる。

浅草
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鎌倉時代、吾妻鏡の中の浅草

 

 治承5年(1181)、頼朝は鶴岡八幡宮寺の本格的な造営を企画、「当宮。去年仮雖有建立之号。楚 忽之間。先所被用松柱萱軒。」とあるので、先に建てたのは急造の萱葺きの建物という事になります。

 夏の初めには材木の一部が由比浦に到着。その後、武蔵国浅草から大工を呼び寄せ、上棟式があり、浅草の大工たちは頼朝から馬 を賜っています。  注目すべきは、武蔵国浅草の大工。「於鎌倉中、無可然之工匠。仍可召進武蔵国浅草大工字郷司之旨…」とあるように、鎌倉にはいなかった工匠が、それも大規模な神社 仏閣の造営も任せることができる宮大工の棟梁が、浅草にはいたことになります。 「浅草」という地名の文献初出が吾妻鏡。

 

 浅草寺は7世紀の創建と伝える古い寺院で、この辺には他にも鎌倉時代以前からの由緒を持つ神社があり、寺社に関わる大工が近辺に集まっていたのかもしれません。浅草寺の存在や隅田川の渡船場があっ たことによって、鎌倉時代の浅草は人出があったという考証もあります。(『台東区史』など)

 

 鎌倉との交流の中で、道元ゆかりの「洗顔」が浅草にも伝わり、広まっていったのでしょう。

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